最近ニュースで理解増進法について報道されました。
正直なところ、過剰擁護増進法と受け取りかねない、厄介な性質を孕んでいるようにも思います。そもそも同性婚法という区別も、違和感があるくらいなのに、遠い親戚の知り合いのような法案が出されたところで、結婚というスタートラインに近づいた気はほとんどしなかったです。
理解と言えばすぐ済みます。
僕の場合は、職場なんかでよく結婚してるか聞かれます。
そういうときに、同性が対象ですと答えます。だいたい、あーそうなんだ、で終わります。
驚く人も、馴れ馴れしくなる人も、露骨に笑う人もときにいますが(後日どう思ったのか、お菓子を作って来てくれました)僕としては、これ以上増進するものはないように思います。
つまり、同性同士であろうと、同じ日本人同士、単なる結婚として、既存の制度を使えば済む話なのにな、と思うわけです。結局紙の上の出来事だと言えば、そうでしょう。
僕は同性愛も異性愛も同じ人間愛だと思っています。あれこれと卑屈になっていた時期もありましたが、今ではなんのわだかまりも持っていません。
こんな話があります。
子供たちが公園でサッカーをしています。外国の子が一緒に遊びたそうに見ています。
ある子が、「あいつも入れよう」と提案しました。
しかし、みんな大反対しました。
「嫌だ」
「なんで」
「価値観が違うから」「コトバが通じないし」「今までの楽しい空気が変わるだろ」
「一緒に遊んでみれば分かるよ」
「じゃあ、遊んでみよう」
結果、外国の子はしっかりルールを守り、何の問題もなくなじみ、それからはいつも一緒に遊ぶようになりました。
傍で見ていた大人たちは、みんなほっとしました。
こうした状況を見て、険しい顔で首を振り、慎重な姿勢を見せているのが、今の日本の現状、ないし結婚制度なのだと思います。
単純な話ではないかもしれませんが、理解増進法という法案を耳にしたとき、どこか複雑な気持ちで、こんなことを思いました。
好きな人と結婚するのが夢なのは、僕も同じです。
僕は幼稚園で気づきました。
それから、誰にも言えずに小学、中学、高校と自分を抑圧する日々を過ごしました。
自分らしく生きることが、どういうことかも分からないまま、間違った価値観や生き方で、他人も自分もたくさん傷つけてきました。
そうした過去の自分と同じような痛みを持った人たちが、自由に未来を描ける社会にしたいと、心から願います。
今の自分が何をすればいいか、何が出来るかは分かりませんけれど、この気持ちを保ち、同性同士が結婚できる未来、誰もが自分らしく生きられる社会に向かって、自分らしく歩んでいきたいと思います。